『プラヤー・マーン・ナワ・ラーチャ・セーウィー卿談話録』より

− 西暦1920年前後におけるタイ民商法典編纂方針の転換をめぐって −

【覚え書き】

本資料は、タマサート大学社会法学教育科、法哲学科、法制史学科(当時)の共催によって実施されたプラヤー・マーン・ナワ・ラーチャ・セーウィー侯爵とのインタビューを、録音テープからタイプ印刷に起こしたものである(タマサート大学法学部サンヤー教授記念図書館所蔵)。原題は以下の通り:

บันทึก
คำสัมภาษณ์ พระยามานวราชเสวี
โดย
ภาควิชานิติศึกษาทางสังคม ปรัชญา และประวัติศาสตร์

序文の日付は、仏暦2525年(西暦1982年)2月20日となっている。インタビューは、仏暦2523年(西暦1980年)9月12日、同年12月10日、仏暦2524年(西暦1981年)6月16日の3回にわたって行われている。

本資料末尾の付録資料(『談話録』58頁)によると、プラヤー・マーン・ナワ・ラーチャ・セーウィー侯爵(実名:プロート・ウィチャーン・ナ・ソンクラー)は、仏暦2433年(西暦1890年)9月18日にソンクラー県で生まれた。卿の履歴は以下の通り:

学歴
仏暦2451年(西暦1908年)、バンコク市内ラーチャ・ウィッタヤーライ高等学校を卒業。

仏暦2454年(西暦1911年)、司法省付属法律学校を卒業。タイ法曹資格取得。

仏暦2459年(西暦1916年)、イギリスの法律学校 Inner Templeを卒業。Barrister-at-Law。

職歴
仏暦2451年(西暦1908年)、英語通訳修習生。

仏暦2452年(西暦1909年)、法典編纂委員会付き常勤英語通訳。

仏暦2453–2560年(西暦1910–1917年)、国際裁判所付き常勤英語通訳。

仏暦2460–2561年(西暦1917–1918年)、[王室の?;訳者]法務部補佐官。

仏暦2462年(西暦1919年)、法典編纂委員会事務官。

仏暦2463–2565年(西暦1920–1922年)、法典編纂委員会の法典翻訳委員。

仏暦2466–2567年(西暦1923–1924年)、法律起草局の法案起草委員。

仏暦2468年(西暦1925年)、一審裁判所長官。

仏暦2469–2570年(西暦1926–1927年)、国際裁判所長官。

仏暦2471–2576年(西暦1928–1933年)、検察庁長官。

仏暦2477年(西暦1934年)、大蔵大臣。

仏暦2478年(西暦1935年)、王室財務局長官。

その後の経歴については記述がなく、没年も訳者には不明であるが、衆議院議長、枢密院議員などを歴任しているようである。

インタビューが行われたのが1980年から81年にかけてであるから、卿はその時点で既に90歳の高齢に達している。こうした理由から、タイの民法研究者の間には、その発言の信憑性に疑念を抱く向きもあるという。この点に関しては、確かに判断の仕様がないが、録音から起こされた文章を読む限りでは、「老齢による意識の混濁」などを感じさせるところは全くない。むしろ、悪い言葉であるが「老獪」とも言えるほどの明晰さを示している。とはいえ、事は録音当時から数えて60年も過去の出来事である。卿にとって印象深い場面が殊更にクローズアップされ、単純化されていることは十分に考えられる。それぞれの出来事が正確に何年に起きたのか、あるいは場面の前後関係がどうであったのか、不明瞭であることもある。しかし、卿の語る内容が「作り話」であるかもしれないなどと疑うことは、全く根拠のないことであると信じる。いずれにせよ、そうした議論のあることを念頭において、引用とコメントをお読みいただきたい。

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* 第一回目のインタビューより:プラヤー・マーン卿が民商法典起草に携わるに至った経緯

* 第一回目のインタビューより:ドイツ民法および日本民法に関する情報源について