ドイツ民法および日本民法に関する情報源について

第一回(仏暦2523年、西暦1980年9月12日)のインタビューの中盤では、しばらくの間、史料の保存に関する議論が続き、その中でプラヤー・マーン卿は、卿が作成した参照条文の索引は第四編第1420条までであると発言している。つまり、物権法までであって、民主革命後に公布された家族法と相続法は含まれていないことになる。

その後、話題は再び民商法典編纂に戻り、フランス人顧問団の草案が実質的に廃案になってから、彼らはすべてフランスに帰国したのかとプリディー教授が尋ねると、プラヤー・マーン卿は、ルネ・ギヨーン一人だけはタイに留まったと答えている:「この人はタイが好きでね、帰国しなかったのです。[…]それに、とても良い人で、仕事もできる人でした。彼がまだタイにいるのに、もし私たちが彼に仕事をさせなかったら、かえって奇妙だったでしょう」。こうして、ギヨーン氏だけはその後もタイ政府に協力し、タイの地で永眠したらしい。

第7頁

[42]

プラヤー・マーン卿:
[…前半略…]法典の件に戻りますが、はっきりと申して、日本の方々も腕が立つ。まねをするのが実に上手だ。ドイツ人が長い時間をかけて考え抜いた成果を、日本はさっとまねをした(笑い)。中国のやり方も同じですよ。この件に関しては、日本は実に有能でした。[民法典を起草した方々は]この仕事に人生を捧げたのです。例えば穂積男爵がそうです。この方の努力は他を抜きん出ていました。男爵は、イギリスとドイツの両方に留学していらしたんです。イギリスでBarrister-at-Lawを取得した後に、ドイツに留学しました。それからもう一人、梅教授もそうです。この方はフランスに留学し、その後にドイツに留学しました。もうお一人いらっしゃいました。富井教授です。日本の民法典はですね、タイの民商法典と全く同じタイプです。まず、フランス人顧問を招聘して草案を書かせたが、どうも釈然としなかったのです。私たちタイの場合はですね、出来上がった草案をタイ語に訳出して、それを裁判官や弁護士の方々にお配りしたところ、読んでも理解できないという不満が噴出したのです。あの頃、委員長閣下は草案を作り直す決定を下すに至っていらしたのですが、フランス人顧問団の権威を畏れていた私たちには、それを話し出す勇気がありませんでした。それで、裁判官の方々に翻訳をお配りし、[私たちに代わって]発言していただかなければならなかったのです。[…中略…]こうして初めて、委員長閣下は私たちに起草のやり直しをお許しになりました。それで私たち[タイ人委員]は[自力で起草し直そうと]したのですが、[力が及ばなかったので]あの日本のやり方を手本とすることにしたのです。

以上の発言から、プラヤー・マーン卿の「日本民法観」がある程度察せられる。卿は、日本の旧民法の挫折を、タイにおけるフランス人顧問団の失敗と「全く同じタイプ」だと見ているようである。それにしても、穂積男爵、梅教授、富井教授といった日本の法典調査会の主要メンバーの名を挙げていることは興味深い。また、フランス人顧問団の原案を卿が翻訳して関係機関に配ったところ、裁判官や弁護士たちは「理解できない」と拒絶的な態度を示した事件に関しては、タイ政府による一種の「演出」が働いていたことも察せられる。

そして、フランス人顧問団の草案の廃案が正式に決定されてからも、法典編纂委員会のタイ人委員は独力での再起草に固執したが、それが非常に困難と判って初めて、プラヤー・マーン卿の提案が採用されるに至った、というのが、当時の一連の流れであったのだろうか。

この後、インタビューでは仏暦2466年に公布された民商法典第一編・第二編に関して問答が続き、再び日本民法に話題が戻る:

第8頁

[47]

プラヤー・マーン卿:
[…前半略…]日本でフランス人顧問が最初に起草したときも、[タイと]全く同じでした(笑い)。裁判官の方々がお読みになっても理解できなかった。それで[日本政府は]穂積教授や富井教授ら三人の先生方を委員に任命して新法を書かせたのです。この方々は、ドイツ法を手本にして、そこから切り取り、書き写してきて新草案をまとめたのですが、そのとき彼らは「これは自分たちの知恵ではない、ドイツ法からコピーしてきたのだ」と隠さずに認めているのです(笑い)。ところで、ベッカー氏の著作に関してですがね、プリディー先生もご存知のように、[私が]使っていた頃には既に数冊ありましたが、それらの本は、私たちは[イギリス留学中に?;訳者]既に読んで勉強してきました。それから、ベッカー氏の[その後に出版された日本民法に関する]英語の解説に依拠しました。これは役に立ちます。そして[ドイツ民法に関しては]シュスターの著作です。[…以下略…]

正直に言って、上記訳出部分のコンテキストはあまり明確ではなく、日本語訳の正確さに関しても自信がないが、少なくとも、プラヤー・マーン卿がどのようにして日本民法に関する情報を入手したか、その典拠を知ることはできる。政尾藤吉博士が法律顧問の職を辞して以来、タイ政府には日本語を解する人物は一人もいなかったであろう。したがって、日本民法に関する情報は専ら英語を通じて入手するしか、手はなかったのである。それがデ・ベッカー(Joseph Ernest de Becker; 1863-1929)の著作であったらしい。卿がイギリス留学中であった頃、日本の民法および商法に関しては、以下のような著作が出版されていた:

  1. Annotated Civil Code of Japan ; introduction by Count Hayashi, Butterworth, London, 1909.
  2. Commentary on the Commercial Code of Japan, Butterworth, London, 1913.
  3. Elements of Japanese law, Kelly & Walsh, Yokohama, 1916.
  4. Pointers of Japanese law, Kelly & Walsh, Yokohama, 1916.
  5. Pointers on Japanese trademarks, Kelly & Walsh, Yokohama, 1916.
  6. Pointers on Japanese patents, Kelly & Walsh, Yokohama, 1917.
  7. International private law of Japan, Butterworth, London, 1919.
  8. Japanese laws and ordinances concerning patents, trademarks, designs and utility models, Butterworth, London, 1922.
  9. The principles and practice of the Civil code of Japan ; A complete theoretical and practical exposition of the motifs of the Japanese Civil code, Butterworth, London, 1921.

このうち、卿が実際に利用したのは、1. 2. 9.であろうか。それから、ドイツ民法に関して触れられている「シュスターの著作」とは、以下のものと思われる:

  • Ernest J. Schuster (LL. D. Munich) of London's Inn, Barrister-at-Law : The Principles of German Civil Law, Henry Frowde, London, 1907.

ところでプラヤー・マーン卿は、日本民法の起草者たちがドイツ法などの外国法を手本にしたことを公言していることに、殊更に驚きと敬意を表している。卿がタイ民商法典第一編から第四編までの起草作業を終了した後に、大変な苦労をしながら参照条文の索引を作成したのも、この日本の例を範にとっての行動であったと思われる。

そしてインタビューでは、タイ政府が当時、なぜ誰一人としてドイツ留学へ送らなかったのか、その理由が話題になる。プラヤー・マーン卿は、その理由は単純で、英語に加えてもう一つ外国語を習得できるような人材が見つからなかったからだ、と答えている。それに続けて「私の場合は命令されたのですよ。ラピー殿下が『イギリスの法曹資格を取得したら、お前はハイデルベルグへ行け』と命令なされたのですが、幸いにも、ある事情で行かずに済んだのです(笑い)」と加えている:

[51]

プラヤー・マーン卿:
そうした事情だったのです。なぜ私たちが誰一人もドイツ留学に送らなかったのかというと、外国語能力の問題だったのです。いずれにしても、イギリスのコモン・ロー・システムも法の支配(The Rule of Law)の原則に基づいていますから、[それを勉強すれば、近代]法制の要点は十分知ることができますし、法典法を理解することもできるようになります。それからですね先生、ドイツ法とは不思議なもので、コモン・ローを知っているイギリス人にはすぐに理解できるのですよ。ところがですね、フランスのシヴィル・コード・システムはそうではない。読んでもすぐには理解できない。何か辻褄が合わない。実に不思議なものです。こうした訳で、日本はこのような事情を知って、私たちに先立って[ドイツ法継受の]道へ進んだのです。この日本の選択は正しかったと私は思います。そして私たちは、更にこの日本の選択に従ったのです。このドイツ民法典ですがね、「トゥン・フイ・ワン」とかいう名の中国人が英語に翻訳していたんですよ。プリディー先生もお読みになったことがあるかと存じますが、実に良い翻訳です。私はイギリス留学時代に読みましたが、とても良く分かると感じました。

上記の発言の最後の箇所で、ドイツ民法に関する情報源に言及されている。当時、その英語訳を出版していた中国人とは「チュン・フイ・ワン(Chung Hui Wang)」(漢字表記は不明)であり、その翻訳は以下のものと思われる:

  • The German Civil Code ; translated and annotated by Chung Hui Wang, D. C. L., with an historical introduction and appendices, Stevens and Sons, London, 1907.

以上のような発言で言及されたドイツ民法および日本民法に関する英語の著作物こそ、プラヤー・マーン卿がタイ民商法典編纂の際に拠り所とした主要な情報源であったと想像される。

[つづく]
* * *