ドイツ民法および日本民法に関する情報源について |
第一回(仏暦2523年、西暦1980年9月12日)のインタビューの中盤では、しばらくの間、史料の保存に関する議論が続き、その中でプラヤー・マーン卿は、卿が作成した参照条文の索引は第四編第1420条までであると発言している。つまり、物権法までであって、民主革命後に公布された家族法と相続法は含まれていないことになる。 その後、話題は再び民商法典編纂に戻り、フランス人顧問団の草案が実質的に廃案になってから、彼らはすべてフランスに帰国したのかとプリディー教授が尋ねると、プラヤー・マーン卿は、ルネ・ギヨーン一人だけはタイに留まったと答えている:「この人はタイが好きでね、帰国しなかったのです。[…]それに、とても良い人で、仕事もできる人でした。彼がまだタイにいるのに、もし私たちが彼に仕事をさせなかったら、かえって奇妙だったでしょう」。こうして、ギヨーン氏だけはその後もタイ政府に協力し、タイの地で永眠したらしい。 |
第7頁 |
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プラヤー・マーン卿: |
以上の発言から、プラヤー・マーン卿の「日本民法観」がある程度察せられる。卿は、日本の旧民法の挫折を、タイにおけるフランス人顧問団の失敗と「全く同じタイプ」だと見ているようである。それにしても、穂積男爵、梅教授、富井教授といった日本の法典調査会の主要メンバーの名を挙げていることは興味深い。また、フランス人顧問団の原案を卿が翻訳して関係機関に配ったところ、裁判官や弁護士たちは「理解できない」と拒絶的な態度を示した事件に関しては、タイ政府による一種の「演出」が働いていたことも察せられる。 そして、フランス人顧問団の草案の廃案が正式に決定されてからも、法典編纂委員会のタイ人委員は独力での再起草に固執したが、それが非常に困難と判って初めて、プラヤー・マーン卿の提案が採用されるに至った、というのが、当時の一連の流れであったのだろうか。 この後、インタビューでは仏暦2466年に公布された民商法典第一編・第二編に関して問答が続き、再び日本民法に話題が戻る: |
第8頁 |
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プラヤー・マーン卿: |
正直に言って、上記訳出部分のコンテキストはあまり明確ではなく、日本語訳の正確さに関しても自信がないが、少なくとも、プラヤー・マーン卿がどのようにして日本民法に関する情報を入手したか、その典拠を知ることはできる。政尾藤吉博士が法律顧問の職を辞して以来、タイ政府には日本語を解する人物は一人もいなかったであろう。したがって、日本民法に関する情報は専ら英語を通じて入手するしか、手はなかったのである。それがデ・ベッカー(Joseph Ernest de Becker; 1863-1929)の著作であったらしい。卿がイギリス留学中であった頃、日本の民法および商法に関しては、以下のような著作が出版されていた:
このうち、卿が実際に利用したのは、1. 2. 9.であろうか。それから、ドイツ民法に関して触れられている「シュスターの著作」とは、以下のものと思われる:
ところでプラヤー・マーン卿は、日本民法の起草者たちがドイツ法などの外国法を手本にしたことを公言していることに、殊更に驚きと敬意を表している。卿がタイ民商法典第一編から第四編までの起草作業を終了した後に、大変な苦労をしながら参照条文の索引を作成したのも、この日本の例を範にとっての行動であったと思われる。 そしてインタビューでは、タイ政府が当時、なぜ誰一人としてドイツ留学へ送らなかったのか、その理由が話題になる。プラヤー・マーン卿は、その理由は単純で、英語に加えてもう一つ外国語を習得できるような人材が見つからなかったからだ、と答えている。それに続けて「私の場合は命令されたのですよ。ラピー殿下が『イギリスの法曹資格を取得したら、お前はハイデルベルグへ行け』と命令なされたのですが、幸いにも、ある事情で行かずに済んだのです(笑い)」と加えている: |
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プラヤー・マーン卿: |
上記の発言の最後の箇所で、ドイツ民法に関する情報源に言及されている。当時、その英語訳を出版していた中国人とは「チュン・フイ・ワン(Chung Hui Wang)」(漢字表記は不明)であり、その翻訳は以下のものと思われる:
以上のような発言で言及されたドイツ民法および日本民法に関する英語の著作物こそ、プラヤー・マーン卿がタイ民商法典編纂の際に拠り所とした主要な情報源であったと想像される。 |
[つづく] |