プラヤー・マーン卿が民商法典の編纂に携わるに至った経緯

第一回(仏暦2523年、西暦1980年9月12日、16時15分より17時45分にかけて、バンコク市内サートン南通り185番に所在する卿の自宅にて収録)より引用:

第1頁

[1]

プリディー教授:
それでは私から質問を始めさせていただきます。
ユット・セーンウタイ教授の研究に従いますと、制定法を導入する以前にイギリス法制を採用していた時期があった、特に[司法省付属]法律学校で研究されていた時期があった、とのことですが、この発言は、どの程度に真実と照応しているのでしょうか。もしそれが真実であるとすれば、具体的にどのようなイギリス法制が実際に採用されていたのか、卿はご存知でいらっしゃいますか。

[2]

プラヤー・マーン卿:
その点に関しましては、次のような事情がありました。コロム・ラーチャブリー・ディレークリット親王[タイの近代化を指導した国王ラーマ五世の王子で、「タイ近代法制の父」として崇拝される。以下、「殿下」あるいは「ラピー親王」と略称;訳者]がイギリス留学からご帰国なさると、殿下は当時存在するタイ[伝統]法すべてを丹念にお読みになり研究なさいました。あの『三印法典』です。殿下は特別の能力をお持ちの方でね、一度読んだことはすべて覚えていらっしゃる。

殿下はタイ[伝統]法をお読みになって、その索引をお作りになったのです。あの当時、ローマン・ジャックマン卿がまだ殿下にお仕えしていらっしゃいました。プリディー先生もご存知のように、索引の作成には大変な時間がかかります。しかし殿下はすばらしい記憶力をお持ちでしたから、わずか三、四ヶ月の間に完成なさったのですよ。もし我々が同じことをしようとしたら、おそらく年単位の時間を要したでしょうね。[…以下省略…]

プラヤー・マーン卿の談話は、ここで一旦時間を遡り、ラピー親王が9歳でイギリスに渡り、14歳でオックスフォード大学に入学なさったときにエピソードなどを披露する。そしてラピー親王がご帰国になった時点に話を戻す:

[3]

殿下は[イギリス留学から]ご帰国なさり、タイの[伝統]法をすべてお読みになると、タイ法はCommon Law System[判例法]のタイプであると判断なさいました。プリディー先生もご存知の通り、法体系にはJus Scriptum[成文法]とJus non Scriptum[不文法]がありますが、そういう訳で、殿下はこの法制度[イギリスのコモン・ロー]を導入なさったのです。

第2頁

[4]

まず、イギリス法に基づいて殿下がお作りになったのは、チャクリ王朝治世127年[仏暦2451年、西暦1908年]の民事訴訟法です。それから、刑事訴訟法に刑法です。殿下は、[司法省の法律学校で]コモン・ロー法学を講義なさり、それを[実務に]導入なさったのです。

プラヤー・マーン卿は更に、ラピー親王の刑事訴訟法に関する講義録を編集して、関係諸機関に配布するなど、本格的な訴訟手続きの知識の普及に協力したことなどを語り、当時のタイ法制が、伝統的な慣習法と近代的な一般法原則とが混在する奇妙な性格のものであったことを指摘する。そして、話を刑法典と民商法典の編纂事業に移す:

[7]

Codification(法典編纂)の件ですが、本当のところ、ラピー殿下もそうせざるを得なかったのですよ。当時はですね、私たちは[外国人の関わる裁判のために]領事裁判所に赴かなければなりませんでした。プリディー先生もよくご存知のように、西洋人はタイ法を嫌っていましたからね。彼らはタイの裁判所に入ることを拒否しました。あの頃は、私たちはまだ西洋人をたいへん畏れていましたから。過剰なほどの特権を彼らに許してしまったのです。彼らにタイ法を受け入れさせるためにも、西欧型の法制度を整備する必要があったのです。ラピー殿下はまず、インドの刑法典、イギリスがインドのために作ったあの刑法典をご研究なさって、[タイの]刑法典を編纂なさいました。それが治世127年[仏暦2451年、西暦1908年]のタイ刑事法典です。インドの刑法典がその原型だったのです。他方、民法典ですがね、これはフランス人の方から起草の申し出があったのです。それで彼らがどうしたかというと、法典編纂委員に任命されるとまず、フランス式の三編構成を提案してきました。[ところが]その起草作業がたいへん長引き、なかなか完成しない。とうとう私がイギリス留学から帰って来たのですが、まだ終わっていない。当時の編纂委員たちは、自ら進んで[フランスからタイに]やって来て、編纂委員になってくれたのですよ。そのなかには、モンシャウィル委員、フランス控訴院の事務官だったウィーリエー氏、ラーウェック委員[等]がいました。彼らは長い間努力を続けたのですが、その草案はついに完成しなかったのです。

ここで卿が触れた「タイ刑事法典」の成立事情に関しては、既に詳細な研究が発表されているので、是非参照いただきたい;

  • 西澤希久男「タイ民商法典編纂史序説」名古屋大学法政論集177号(1999年3月)238-9頁。
  • 香川孝三著『政尾藤吉伝・法整備支援国際協力の先駆者』信山社(2002年)141-165頁。

プラヤー・マーン卿は、上記第7段で卿自身のイギリス留学に言及したことから、話を西暦1908、9年に遡らせる。卿はその頃、法典編纂委員会の英語通訳を勤めていたが、ラピー親王に認められて、司法省付属法律学校に入学することを許される。卒業すると、今度はイギリス留学に送り出される:

第3頁

[9]

[こうして]ラピー殿下は、私に司法省の法律学校に入学することをお許しくださいました。私がこの学校を卒業して法曹資格を取得すると、殿下は今度はイギリスに留学させてくださったのです。イギリスで私は一心不乱に勉強しました。そしてとうとうイギリスの法曹資格を取得することができたのです。ところで、イギリスという国は不思議なところでしたね。私たちは普段、勿論、英語で勉強していました。ところが裁判所に行ってみると、イギリス人法律家たちがドイツ語で話し合っているじゃないですか。しかもそれが珍しくなかったんです(笑)。イギリスの貴族裁判官の方々は当時、ドイツ[民法]に大変大きな関心を抱いていました。ええ、そうです。彼らは皆、ドイツ法はすばらしいと信じていましたから。

このように、プラヤー・マーン卿はイギリスで経験した「ドイツ民法との出会い」に言及しているのだが、ここに続く段落で卿は、ラピー親王から直々に受けた指示について語る。実はイギリスに出立する直前、卿がラピー親王に謁見すると、ラピー親王から「イギリスでの勉強を終了したら、その足でドイツに留学し、帰国後は民商法典の起草に携わってはどうか?」と提案されたというのである。ラピー親王ご自身がドイツ民法に関心を寄せていた。卿はこうして、イギリス法の勉強の傍ら、ドイツ民法の学習を進める:

[11]

そうした訳で、イギリス留学中、私はドイツ法の教科書も読んで勉強しました。そして「ああ、よく分かる」と感じました。私たちは[法律学校 (Inner Temple) の授業で]ドイツ法を教わった訳ではありませんでしたが、不思議なことに、読んですぐに理解できたのです。

[12]

その後私は、タイに帰国して検察庁長官に就任しました[卿は仏暦2459年、西暦1916年に帰国して[王室の?;訳者]法務部補佐官に就任し、仏暦2470年、西暦1927年より検察庁長官を勤める;編者注]。ドイツへ留学したかったんですがね、結局その希望は叶いませんでした(笑)。あの頃、フランス人顧問たちの法典編纂委員会は、未だにその作業を完了していませんでした。そこに勅令が下って、私が再び法律起草局[「法典編纂委員会」の間違いか?;訳者]に送り込まれることになりました。私は、彼らの草案を調べてみました。それで分かったんですが、あのフランス人顧問たちは、オリジナルのシステムでタイの法典を作ろうとしていたんです。つまり、全く新しい体系を自力で築き上げようと努力していました。私は彼らの草案をよく読んでみました。でも、どうもすっきりと理解できないのです。法律を書いているのに、全体が整っていない。何か辻褄が合わないんです。そこで私は、この草案をタイ語に翻訳してみました。この、私が翻訳した条文200条ですがね、誰に読ませてみても、やはり理解できない。とても読みづらいのです。最後に私は、それを国王陛下に献上いたしました。

履歴によると、西暦1916年にイギリス留学から帰国したプラヤー・マーン卿は、1919年から再び法典編纂委員会に送り込まれている。その当時、西暦1908年の刑事法典成立以来10年に渡って、フランス人法律顧問団を中心に民商法典の起草作業が続けられていたが、どうもそれが行き詰まり状態にあったようである。上記の発言を信じる限り、出来上がっていた部分をタイ語訳したのは、プラヤー・マーン卿であった。後続する段落によると、当時、国王陛下が国語審査委員会をご設置になり、その委員長が卿の翻訳した草案を読んだが、理解できない。国王陛下もお読みになったが、やはり理解できなかったという。こうして、タイ政府自身が実に具合の悪い立場に立たされることになった。フランス人法律顧問団はフランス政府からの要望により、招聘されていた[この事情に関しては、杉山直治郎「暹羅法の進歩と故政尾博士の功績」(政尾隆二郎編『政尾藤吉追悼録』所収、大正11年)43頁を参照いただきたい]。フランスとの友好関係をきわめて重視していたタイ政府としては、フランス人顧問団の起草事業が暗礁に乗り上げたからと言って、彼らの草案をそう簡単に破棄する訳にはいかなかったであろう。

ここでいくつかの疑問が湧く。まず、上記の出来事はいつの時点で起きたのであろうか。履歴によれば、卿が事務官[あるいは書記官か?]として編纂委員会に復帰したのが1919年、翌1920年には法典翻訳委員に昇進している。したがって早ければ1919年には、卿の翻訳を読んだタイ政府は「フランス人顧問団の起草事業は失敗した」という認識にほぼ達していたということになる。そして1920年から22年までの2年間、卿は法典翻訳委員を勤めているが、おそらくこの草案の公布の準備に携わっていたのであろう。それが仏暦2466年(西暦1923年)のタイ民商法典第一編および第二編である。その第2条は「本法典ハ、仏暦2467年1月1日ヨリコレヲ施行ス」と規定しているのだが、上述の点からすると、タイ政府はこの二編を、初めから施行する意思もなく、専ら外交的配慮から公布したということなのだろうか。

つぎに、卿は「私が翻訳した条文200条」と言っているが、これも気にかかる点である。1923年に公布された上記民商法典第一編は第105条まで、第二編は第106条から第452条までの347条である。「200条」とはこのうち、どの部分だったのだろうか。これは単なる憶測に過ぎないが、フランス人顧問団の草案中、第一編に相当する部分は本来200条ほどあったのではなかろうか。卿がまず試みに翻訳して国王陛下に献上したのは、この部分であったろうと想像される。そのうち、問題のある条文を削除して半分余りに整理した上で、第一編として公布したということなのであろうか。確かに、初めから施行する意思がないのであれば、それでも構わなかったのかもしれない。この時期の目まぐるしく変わる民商法典の構成に関しては、既に先駆的な研究が公開されている;

  • 飯田順三「タイ民商法典成立小史(4)」ジュリスト1160号(1999年7月15日)5頁。

しかし真の問題は、フランス人顧問団の草案に代わるべきものを誰がどうやって起草するか、である:

第4頁

[13]
後半

そこで国王陛下は私に「どうしたものか」とお尋ねになりました。最終的には、私は陛下に対して「現在の委員会はおそらく、役に立たないでしょう。法典編纂委員会を改組なさるのが適当かと存じます」と上奏いたしました。実際、我々のためにせっかく[フランスから]やって来て草案を書いてはくれたのですが、書き上げた草案が整合性に欠けるということは、私たち法典編纂委員の能力が及ばなかったということなんですよ。結局、ほとんどの編纂委員は辞任せざるをえませんでした。書き上げはしたものの、混乱ばかりだったからですよ。あの時残っていたのは、プラヤースィー卿[=プラヤー・チンダー・ピロム・ラーチャ・サパー・ボディー侯爵]と私だけでした。そしてとうとう委員長殿[国語審査会委員長か?;訳者]が[私の翻訳を]詳しくお調べになって言葉遣いをすっかりお直しになり、やっと「フランス人の起草した法案には問題がある、全体に整合性がない」とお認めになったのです。

[14]

それで、委員長閣下[法律編纂委員会委員長か?;訳者]もついに「フランス人顧問たちに起草を任せておくことはできない」とお認めになり、私たち二人をお呼びになりました。私たちは委員長殿のところに相談に参ったのですが、プラヤースィー卿、この方は私の兄なのですが、実に賢い方で、何かまずい立場に置かれると黙り込んでしまうのです。委員長が質問なさっても、一言もおっしゃらない。[目下である私はじっと我慢していましたが、]とうとう私が口を開いて提案申し上げたのです、私たちに日本式のやり方を使わせてはいただけないでしょうか、と。つまり、日本民法からコピーしてくるのです。この方法でしたら簡単ですし、すぐにできます。あの[経験豊かな]フランス人たちでさえ、自力で編纂するには力が及ばなかったのです。私たち自身が無理をして起草しても、その結果はもっと無惨になるばかりでしょう。日本を模倣するのが一番よい。と申しますのも、日本[民法]はドイツ[民法]を模倣しているのです。ドイツは[フランス民法典の成立以来]既に100年も研究してきました。そして日本は、このドイツ法を模倣するに当たって[西欧の諸法のなかから自ら進んでドイツ法を]選択して模倣しているのです。プリディー先生もご存知でしょう? しかし日本は、ドイツのやり方を[そっくりそのまま]取り入れた訳ではありません。それが何であれ、難解なところはどんどん切り捨て、分かりやすいところだけを採用しました(笑)。

1919年に法典編纂委員会に復帰したとき、卿は単なる事務官であった。年齢の面でも一番の若輩で「委員会の末席を汚す」程度の存在に過ぎなかったであろう。年功序列の非常に厳しいタイの貴族官僚の社会にあって、当時のプラヤー・マーン卿には全く発言権がなかったと想像される。しかし卿の脳裏には、ラピー親王の提案に促され、イギリス留学以来練って来た独自の構想があったに違いない。卿は忍耐強く、それを提案する時期を窺っていたのである。そしてとうとう、委員中の最後の一人となったとき、その構想を披瀝したのである。その構想とは、ドイツ民法の継受を本来の目的としながらも、それを迅速に進めるために、日本民法を手引きとする、というものである。日本民法は卿にとって、パンデクテン法学、ドイツ民法学という「大海」に乗り出すための「羅針盤」であったと言えよう。このことは、実際に条文を検討することによって、検証されなければならないが、この段落こそ、第一回目のインタビューの最初の「ハイライト」とも言える部分であるから、以下にその原文を掲載する:

[14]

ที่นี่เมื่อกรรมการเจ้านายผู้ใหญ่ท่านเห็นว่าฝรั่งเขียนไม่ดี ท่านเรียกพระยาศรีฯ กับผม ไปปรึกษา พระยาศรีฯ ท่านเป็นพี่ชายของผม ท่านเป็นคนฉลากเห็นท่าไม่ดีก็นิ่งเสีย เจ้านายถามมาก็ท่านนิ่งเสีย พอท่านนิ่งผมก็เลยเสนอไห้เราใช้วิธีแบบณี่ปุ่น คือกอบบี้ (Copy) กฎหมายญี่ปุ่นมา มันง่ายดีแล้วก็เร็วดี ไอ้อย่างฝรั่งมือมันยังไม่ถึงขั้นจะร่างฯ มืออย่างเรา ๆ ขืนให้ร่างก็ยิ่งไปกันใหญ่ เราใช้วิธีเอาอย่างจากญี่ปุ่นมานั้นดี เพราะญี่ปุ่นไปเอาอย่างมาจากเยอรมัน เขาค้นคิดกันมาแล้วเป็นร้อยปี แล้วเมื่อญี่ปุ่นเอาอย่างเขามาก็เลือกเอามา อาจารย์ก็รู้ แต่ญี่ปุ่นไม่อย่างนั้นของเยอรมัน ข้อไหนยากก็ตัดทิ้งเสีย เอาแต่ไอ้ที่ง่าย ๆ (หัวเราะ)

上記引用部分で、赤く表示した文の意味が、実はあまり明瞭ではない。「選ぶ(เลือก)」とあるが、何を選ぶのか、その目的語が不明なのである。二つの可能性が考えられる;

  1. 英仏独などの諸法制の中から、その最新のものとしてドイツ法を「自ら進んで選し、それを模倣した」という意味に解釈する。ここには「外国の圧力によって強要されたのではない」ということも含意される。
  2. 日本がドイツ法を模倣する際には「模倣すべき部分だけを選択して模倣した」という意味に解釈する。したがって、これに続く文「何であれ難解なところ云々…」は、同じ内容を補足的に解説したものと解釈する。

上記の引用では最初の解釈に従ったが、後者の解釈も否定できない。いずれにせよ、この発言にはプラヤー・マーン卿の「日本民法観」が端的に表現されいると言えよう。もちろん、その当否は別問題である。それにしても、ドイツ留学の経験もドイツ人顧問の支援もなく「ドイツ法継受」を提案するとは、何と大胆なことであろうか。おそらく卿自身、自らの構想が「無謀」なことを十分承知していたであろう。しかし卿は、施行から既に四半世紀を経ようとしていた日本民法に対して「全幅の信頼」を寄せていたらしいのである。「日本民法が示す方角に進めば、決して路を誤ることはない」という揺るぎない確信を抱いていたようだ。それが最終的にはタイ政府を動かしたとのではなかろうか。とまれ、ここでは『談話録』の続きを追うことにする。

引き続く段落では、プラヤー・スィー・タンマー・ティベート侯爵、プラヤー・テープ・ウィトゥン侯爵、プラヤー・マーン・ナワ・ラーチャ・セーウィー侯爵らタイ人四名と、フランス人顧問ルネ・ギヨンが新起草委員に任命されて、新草案の起草作業が開始されたことが語られる(西暦1922年のことであろうか?):

[16]

このようにして、私たちの法典は、シヴィル・コード(フランス式)からパンデクト・コード、つまりドイツ式に変更されたのです。しかし、フランスの[私たちに対する]思いやりにはちゃんと報いねばなりません。ドイツ式の枠組みを採用しながらも、ある程度フランス法の規定も盛り込みました。起草作業中、私はよくこんな風に言ったものです、これは日本民法由来の規定で、それはスイス、それから、これは以前の編纂委員会が作ったオールド・テキスト[=フランス人顧問団の草案]からの規定、という風にね。起草が完了してから、私はその索引も作りました。ええ、それはもう大変な苦労でしたよ。ああ、これです。プリディー先生、ご覧下さい。一条一条詳しく調べて、その結果を全て記録してあります。

[17]

これは個人的なことですがね、起草作業に携わっていた間、私は昼夜を問わず、書物と挌闘していました。休みの日など一日たりとてありませんでした。そうやって6年間働き続けたのです。それから、国王陛下に[起草委員]辞職のお許しを請いました。

ここで三つ目の疑問点が浮かび上がる。卿は「6年間働き続けた」と語るが、それは何年から何年までのことなのか。その経歴と単純に引き合わせると、事務官[あるいは書記官]として編纂委員会に復帰した1919年から、正式な起草委員として働いた1924年までの6年間と考えることができる。これが真実と仮定すると、次の三点が指摘される;

  1. 仏暦2466年(西暦1923年)に最初の民商法典が公布される、その4年前もから、既に新たな民商法典の起草作業が始まっていたことになる。ということは、仏暦2466年民商法典と仏暦2468年(西暦1925年)以降の新民商法典の準備作業が、同時並行的に進められていたのか。いずれにせよ、これは「仏暦2466年民商法典が施行の意思なく公布された」ことの裏付けとなる。
  2. 少なくとも仏暦2468年に公布される新民商法典第一編および第二編は、プラヤー・マーン卿の起草によるものであることがはっきりとする。
  3. 更なる疑問点は、それに続く第三編と第四編である。フランス人顧問団の草案に基づく第三編(契約各論)は仏暦2467年(西暦1924年)に一旦は公布される。つまり、プラヤー・マーン卿の起草委員会在任中のことである。しかし、これも仏暦2471年(西暦1928年)に公布された新法によって置き換えられる。そして、第四編(物権)の公布は仏暦2473年(西暦1930年)である。これら二編にプラヤー・マーン卿は一体、どう関わっていたのであろうか。

なお、蛇足であるが、第五編(家族法)および第六編(相続法)を起草する意思は、プラヤー・マーン卿には全くなかったのではなかろうか。卿がイギリスに留学中であった仏暦2456年(西暦1913年)、フランス人顧問団と政尾藤吉博士との間に、婚姻制度をめぐって激しい対立が生じたことは有名である[杉山直治郎「暹羅法の進歩と故政尾博士の功績」46-8頁、香川孝三著『政尾藤吉伝』168-171頁を参照いだだきたい]。「タイにおける法典論争」ともいえる事件であったが、それが原因となって、この二法の起草は勅命によって棚上げとされるに至った。婚姻制度が王室や貴族階級にとって非常にデリケートな問題であったからである。プラヤー・マーン卿自身も貴族である。これらに触れることは「タブー」であったかもしれない[この点につき、下記補注*)を参照いただきたい]。ところが、仏暦2475年(西暦1932年)に事情が一変した。民主革命が勃発して、チャクリ王朝の絶対王政が突如として終焉を迎えたのである。統治権が王室の手を離れて文民官僚の手に委ねられ、立法機関として国会も開設された。こうして、残された二法の立法に「ゴー・サイン」が出されたのである。第五編と第六編が公布されてタイ民商法典の全編が揃ったのは、仏暦2478年(西暦1935年)のことであった。

*)

民商法典第一編に、この点を示唆する条文がある。第一編は、仏暦2535年(西暦1992年)の改正を経て現在に至っているが、現行法の第193条の23、改正前の旧規定では第186条がそれである。この条文の原型と思われるのは、現行ドイツ民法の第211条、2002年の改正前の旧規定では第207条である。まず、このドイツ民法の旧規定をみてみる;

• § 207† [Ablaufhemmung bei Nachlaßsachen]
Die Verjährung eines Anspruchs, der zu einem Nachlaß gehöhrt oder sich gegen einen Nachlaß richtet, wird nicht vor dem Ablauf von sechs Monaten nach dem Zeitpunkt vollendet, in welchem die Erbschaft von dem Erben angenommen oder der Konkurs über den Nachlaß eröffnet wird oder von welchem an der Anspruch von einem Vertreter oder gegen einen Vertreter geltend gemacht werden kann. Ist die Verjährung kürzer als sechs Monate, so tritt der für die Verjährung bestimmte Zeitraum an die Stelle der sechs Monate.
相続財産に属し、またはそれを目的物とする請求権の消滅時効は、相続人によって相続が承認され、または当該相続財産について破産手続きが開始された時点より、あるいはまた、被相続人の代理人によって、若しくはこの者に対してその請求権が行使され得るに至った時点より6か月を経るまでは、完成しない。当該請求権の消滅時効期間が6か月より短い場合には、6か月に代えてこの期間を適用する。]

このドイツ民法の規定に相当する日本民法の規定は第160条である。2004年改正以前の旧規定は以下の通り;

• 第160条†[相続財産に対する時効の停止]
相続財産ニ関シテハ相続人ノ確定シ、管理人ノ選任セラレ又ハ破産ノ宣告アリタルトキヨリ六个月内ハ時効完成セス

これに対し、仏暦2468年(西暦1925年)タイ民商法典第一編第186条は以下のようになっている(翻訳は、旧規定であることを強調するために文語調を用いる);

• มาตรา ๑๘๖†
อายุความแห่งสิทธิเรียกร้อง อันมีอยู่เป็นคุณหรือโทษแก่บคคลเมื่อเวลาตายนั้น ถ้าจะขาดลงภายในเวลาต่ำกว่าปีหนึ่งนับแต่วันตายไซร้ ท่านให้ขยายอยุความนั้นออกไปเป็นปีหนึ่งนับแต่วันตาย
[個人ノ死亡シタル時点ニ於テ、其ノ個人ニ利益ヲモタラシ又ハ不利益トナル請求権ノ存スル場合ニ付キ、其ノ請求権カ死亡ノ日ヨリ1年以内ニ時効ニ因リテ消滅スヘキトキハ、其ノ時効期間ヲ死亡ノ日ヨリ1年ニ延長ス]

幾分不自然とも思われるこの言い換えは、おそらく「相続財産(มรดก)」という語の使用を避けるためであったと思われる。この規定は、現代語化と若干の語句修正を経ただけで、現行の第193条の23に至っている。

[つづく]
* * *