近代(きんだい)民法典(みんぽうてん)成立(せいりつ)について
はじめに

 現在(げんざい)世界(せかい)おこなれている民法の種類(しゅるい)には、まず自由(じゆう)主義(しゅぎ)諸国(しょこく)の民法と社会主義(しゅぎ)諸国(しょこく)の民法とがありますが、前者の中では、フランス法系(ほうけい)(Code Civil; CC)、ドイツ法系(ほうけい)(Bürger­liches Gesetzbuch; BGB)英米法(えいべいほう)(けい)(Common law)の三つが有名(ゆうめい)です。

 日本の最初(さいしょ)の民法は、1880年に公布(こうふ)されました。これを起草(きそう)した法律(ほうりつ)()は、フランス人でしたから、フランス民法がそのモデルでした。しかし、この民法はおおの人々から批判(ひはん)されて、1892年にその施行(しこう)延期(えんき)され、結局(けっきょく)、一()施行(しこう)されずに廃止(はいし)されました。このため、この民法を「(きゅう)民法」とようになりました。この(きゅう)民法を書き換え(かきかえ)、ドイツ民法のかんが方をくわて、現行の日本民法が起草(きそう)されました。(だい)(ぺん)から(だい)(へん)総則(そうそく)物権(ぶっけん)債権(さいけん))は1896年に、(だい)(へん)親族(しんぞく))と(だい)(へん)相続(そうぞく))は1898年に公布(こうふ)されました。なお、民法と商法(しょうほう)は、別々(べつべつ)制定(せいてい)されました。

 タイの民商(みんしょう)法典(ほうてん)も、最初(さいしょ)にフランス人法律(ほうりつ)()のグループによって起草(きそう)されました。この最初(さいしょ)民商(みんしょう)法典(ほうてん)のうち、(だい)(へん)総則(そうそく))と(だい)(へん)債権(さいけん)総則(そうそく))は1923年に、(だい)(へん)契約(けいやく))は1924年に公布(こうふ)されましたが、これらもまた施行(しこう)されずにわり1925年にあたらしい(だい)(ぺん)(だい)(ぺん)が、1928年に(だい)(ぺん)公布(こうふ)され、施行(しこう)されました。その後、1930年に(だい)(へん)物権(ぶっけん))が(くわ)わり、1932年の民主革命(かくめい)の後、1935年に(だい)(へん)家族(かぞく))と(だい)(へん)相続(そうぞく))が成立(せいりつ)しました。これが現行タイ民商(みんしょう)法典(ほうてん)はじまりです。フランス人法律(ほうりつ)()起草(きそう)した法典(ほうてん)は、もちろんフランス民法の影響(えいきょう)がとてもつよものでしたが、あたらしい法典(ほうてん)では、日本民法がモデルとされたため、ドイツ民法の影響(えいきょう)つよなっています。

 以上(いじょう)のように、タイでも日本でも、フランス民法を出発(てん)とし、その後にドイツ民法のかんが方をくわ民法典(みんぽうてん)つくれました。そのため、全体(てき)にドイツ民法の影響(えいきょう)目立めだますが、フランス民法のかんが方もおおの部分にのこています。

 ところで、日本やタイでなぜ最初(さいしょ)にフランス民法をモデルにした民法典(みんぽうてん)計画(けいかく)され、しかし、それが批判(ひはん)されてドイツ民法をモデルにした法典(ほうてん)へと転換(てんかん)されたのでしょうか。その理由(りゆう)の一つは、フランス民法の政治(せいじ)(てき)背景(はいけい)にあります。フランス民法は、1789年にたフランス革命(かくめい)のシンボルとして、ナポレオン皇帝(こうてい)指揮(しき)の下、1804年に成立(せいりつ)しました。そしてこのフランス革命(かくめい)は、ふるヨーロッパの精神(せいしん)世界(せかい)と社会(かん)根本(こんぽん)(てき)てしまったのです。以下(いか)ではまず、近代(きんだい)民法典(みんぽうてん)成立(せいりつ)までにいたなが歴史(れきし)()てみましょう。

ヨーロッパ中世(ちゅうせい)はじまり

 古代(こだい)のヨーロッパでは、375年の「フン(ぞく)侵入(しんにゅう)」を契機(けいき)として、ゲルマンの(しょ)民族(みんぞく)が東ヨーロッパから西(にし)ヨーロッパへと「民族(みんぞく)移動(いどう)」をはじて、ローマ帝国(ていこく)の内部へと侵入(しんにゅう)していきました。その結果(けっか)、ローマ帝国(ていこく)崩壊(ほうかい)し、ゲルマンの(しょ)民族(みんぞく)政治(せいじ)(てき)支配(しはい)(けん)にぎて、封建(ほうけん)国家(こっか)建設(けんせつ)着手(ちゃくしゅ)しました。もともとゲルマン民族(みんぞく)は、部族(ぶぞく)(“Sippe”れるclan system)単位(たんい)にして構成(こうせい)されていましたが、ローマ帝国(ていこく)対抗(たいこう)するため、ローマの文化(ぶんか)制度(せいど)取り入とりいて、強力(きょうりょく)軍事(ぐんじ)(てき)同盟(どうめい)関係(かんけい)形成(けいせい)していきました。これがヨーロッパ封建(ほうけん)制度(せいど)はじまりです。このようにして、ヨーロッパの歴史(れきし)は、いわゆる「中世(ちゅうせい)」へとはいていきましたが、それは、西(にし)ローマ帝国(ていこく)滅亡(めつぼう)した5世紀(せいき)から、東ローマ帝国(ていこく)滅亡(めつぼう)した15世紀(せいき)までの、(せん)年にもわたなが時代でした。

政治(せいじ)宗教(しゅうきょう)たたか教会(きょうかい)法と裁判(さいばん)(けん)

 中世(ちゅうせい)はいと、ゲルマン(しょ)民族(みんぞく)は、政治(せいじ)(てき)にはローマの支配(しはい)から独立(どくりつ)しましたが、その精神(せいしん)世界(せかい)はその後もなが、ローマ、より正確(せいかく)にはバティカンのカトリック教会(きょうかい)つよ支配(しはい)されつづました。封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちは、一方で教会(きょうかい)密接(みっせつ)協力(きょうりょく)つつも、他方(たほう)では人民を支配(しはい)する権力(けんりょく)教会(きょうかい)はげしく競い合い(きそいあい)ながら、中世(ちゅうせい)社会、つまりヨーロッパ封建(ほうけん)社会を築き上げ(きずきあげ)たのです。

 では、政治(せいじ)宗教(しゅうきょう)との間に、どのような協力(きょうりょく)関係(かんけい)があったのでしょうか。封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちは、カトリック教会(きょうかい)保護(ほご)して領地(りょうち)特権(とっけん)あたえるとともに、政治(せいじ)権力(けんりょく)からの一定の独立(どくりつ)(せい)(immunity)承認(しょうにん)しました。それにたい教会(きょうかい)は、政治(せいじ)権力(けんりょく)正統(せいとう)(せい)(legitimacy)保証(ほしょう)して、封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちの権威(けんい)たか、その政治(せいじ)支配(しはい)安定(あんてい)化に貢献(こうけん)しました。他方(たほう)でカトリック教会(きょうかい)は、封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちにとっておおきな脅威(きょうい)でした。なぜなら、教会(きょうかい)個々(ここ)領地(りょうち)国境(こっきょう)規模(きぼ)と、強固(きょうこ)組織(そしき)ゆうていたからです(カトリックとは「普遍(ふへん)(てき)」という意味(いみ)です)。カトリック教会(きょうかい)は、教会(きょうかい)組織(そしき)規律(きりつ)確立(かくりつ)し、信者(しんじゃ)同士(どうし)紛争(ふんそう)解決(かいけつ)するために、その教義(きょうぎ)もとづい独自(どくじ)法律(ほうりつ)制定(せいてい)し、それを一種(いっしゅ)普遍(ふへん)(ius commune)として、国境(こっきょう)て、すべ信者(しんじゃ)適用(てきよう)しました。教会(きょうかい)(ius canonicum)です。このようにして教会(きょうかい)は、人々の日常(にちじょう)生活(せいかつ)ふか入り込はいりこで、その精神(せいしん)と社会生活(せいかつ)を、誕生(たんじょう)から()いたまで厳格(げんかく)支配(しはい)しました。こうした教会(きょうかい)法の確立(かくりつ)には、ローマ市民法(ius civile)がモデルにされたとれています。したがって、カトリック教会(きょうかい)たんなる宗教(しゅうきょう)のための組織(そしき)まらず、その後ヨーロッパで最大の「封建(ほうけん)君主(くんしゅ)」に成長(せいちょう)することになりました。こうしたカトリック教会(きょうかい)権威(けんい)支配(しはい)力に対抗(たいこう)するためには、封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちも裁判(さいばん)(けん)道具(どうぐ)として、教会(きょうかい)の外での人々の生活(せいかつ)管轄(かんかつ)し、そこでの紛争(ふんそう)解決(かいけつ)して、日常(にちじょう)生活(せいかつ)秩序(ちつじょ)維持(いじ)する権威(けんい)掌握(しょうあく)しなければなりませんでした。このようにして、司法(しほう)(けん)法曹(ほうそう)身分(みぶん)は、ヨーロッパの封建(ほうけん)君主(くんしゅ)たちにとり、たん従属(じゅうぞく)する領主(りょうしゅ)間の領地(りょうち)あらそ解決(かいけつ)して政治(せいじ)(てき)安定(あんてい)維持(いじ)するだけでなく、農民(のうみん)都市(とし)住民(じゅうみん)日常(にちじょう)生活(せいかつ)介入(かいにゅう)するための政治(せいじ)(てき)手段(しゅだん)となりました。

ローマ法学の成立(せいりつ)

 こうしたヨーロッパ中世(ちゅうせい)裁判(さいばん)(しょ)適用(てきよう)した法律(ほうりつ)は、おも慣習(かんしゅう)法であって、ローマ私法(しほう)影響(えいきょう)は、まだそれほどおおきくありませんでした。ところで現在(げんざい)までつたられているローマ法とは、東ローマ帝国(ていこく)皇帝(こうてい)ユスティニアーヌスの命令(めいれい)によって、6世紀(せいき)編纂(へんさん)された『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)です。これは、現代の意味(いみ)での法典(ほうてん)ではなく、重要(じゅうよう)法律(ほうりつ)文献(ぶんけん)あつたもので、Institutiones, Digesta (Pandectae), Codex, Novellae れる四部からていました。Institutiones は日本()では『法学提要(ていよう)』とれていて、法学入門(にゅうもん)(よう)教科(きょうか)(しょ)です。Codex勅法(ちょくほう)彙纂(いさん)』は、ユスティニアーヌス以前(いぜん)皇帝(こうてい)による勅令(ちょくれい)あつたもので、Novellae(しん)勅法(ちょくほう)』はユスティニアーヌス自身(じしん)勅令(ちょくれい)(しゅう)でした。他方(たほう)Digesta 学説(がくせつ)彙纂(いさん)』は、私法(しほう)かんする重要(じゅうよう)判例(はんれい)と、それらにかんする著名(ちょめい)な法学者の意見をあつたものでした。前述(ぜんじゅつ)したとおり、中世(ちゅうせい)封建(ほうけん)諸侯(しょこう)にとっては、カトリック教会(きょうかい)対抗(たいこう)してみずか政治(せいじ)(てき)権威(けんい)たかめることが重要(じゅうよう)でしたから、教科(きょうか)(しょ)であるInstitutionesくわて、皇帝(こうてい)権威(けんい)しめCodexNovellae のみが重視(じゅうし)され、Digestaはすぐにわすられて、そのテキストはうしなれてしまいました。ところが11世紀(せいき)になって、イタリアでこのDigesta写本(しゃほん)が発見され、それを研究(けんきゅう)するあたらしいローマ法学がまれました。その中心(ちゅうしん)がボローニャ大学でした。13世紀(せいき)(ころ)までには、ヨーロッパ各国(かっこく)で、高級(こうきゅう)裁判(さいばん)(けん)国王(こくおう)によって独占(どくせん)されるようになり、公法(こうほう)のみならず、私法(しほう)分野(ぶんや)でも司法(しほう)制度(せいど)発達(はったつ)することになりましたが、慣習(かんしゅう)法が適用(てきよう)されていたため、さまざまな問題がしょうていました。慣習(かんしゅう)法は地方によってことなり、はっきりとした記録(きろく)がない場合もありました。このため、慣習(かんしゅう)依存(いぞん)しない一般(いっぱん)(てき)私法(しほう)理論(りろん)必要(ひつよう)となり、ヨーロッパ各国(かっこく)から大勢(おおぜい)留学(りゅうがく)生がボローニャ大学にあつまってローマ法学を学習(がくしゅう)するようになりました。(かれ)らは帰国(きこく)後、自国の学生(たち)にローマ法学をおしえるようになり、こうしてローマ法の理論(りろん)はヨーロッパ各国(かっこく)ひろ学習(がくしゅう)されるようになったのです。

中世(ちゅうせい)終焉(しゅうえん)絶対(ぜったい)主義(しゅぎ)成立(せいりつ)

 その後、ヨーロッパ社会はルネッサンス(Renaissance)宗教(しゅうきょう)改革(かいかく)(Reformation)啓蒙(けいもう)主義(しゅぎ)(Enlightenment)むかて、その政治(せいじ)状況(じょうきょう)おおきく変化(へんか)しました。カトリック教会(きょうかい)権威(けんい)衰退(すいたい)し、強大(きょうだい)国家(こっか)権力(けんりょく)誕生(たんじょう)したのです。絶対(ぜったい)主義(しゅぎ)(Absolutism)の時代です。とくフランスでは、王権(おうけん)封建(ほうけん)領主(りょうしゅ)から権限(けんげん)奪い取り(うばいとり)堅固(けんご)国家(こっか)統治(とうち)機構(きこう)確立(かくりつ)しました。かつての封建(ほうけん)領主(りょうしゅ)たちは、行政官僚(かんりょう)となって国王(こくおう)服従(ふくじゅう)しました。このようにして、(せん)年にわたった中世(ちゅうせい)わり、時代は近代(きんだい)へとはいていったのですが、農民(のうみん)都市(とし)住民(じゅうみん)など、庶民(しょみん)生活(せいかつ)はほとんどわりませんでした。

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